2008年4月29日火曜日

自己変革ラボ

現在、講師をする予定のある研修開発サポートをしている。

この研修、なかなかコンセプトにこだわりもあり、筋の良い理論も中心に据えられていて、どんな研修になるか楽しみだ。うまく仕上がったら講師としてもやりがいのある研修になるだろう。

この研修、参加者のコンテキスト(考え方、行動の仕方、判断の仕方)に変化が起こるように働きけることを目標としている。(専門用語でダブルループラーニングを狙ってます)

これからの研修はこうあるべきだなと自分も常日頃から考えてファシリテーションやコーチングスキルを磨いているのだが、研修コンテンツと講師の、想いと技量がバランスよく合うことは本当に少ない。研修コンテツが本質からずれている割に妙にテクニックや理論に懲りすぎていたり、講師がコンテツや参加者をつかめずちぐはぐな雰囲気になったり、参加者の一時的な満足にのみフォーカスしてウケ狙いなエンターティナーに走ったりするケースは多い。

以前にもブログに書いたが、
これからは研修の場は「知る場」ではなく、
「自分をパワフルに変えるための実験の場(そう、さながらラボラトリー)」
になっていくのが望ましいと思う。

講師はそれを上手にサポートするために、
きちんとした知識背景を持ち、参加者の内面に働きかける技術を磨いておくのが必要だ。
(がんばろっと)

この研修の状況はまた書きます。

2008年4月23日水曜日

品評されるのも慣れてきた

最近、

「エッケイさんのお手並みを見たいのでなんかやってください」

「あなたがふさわしいかわからないのでデモしてみてください」

という機会が増えた。

子どもの頃からこういった他人に試されるとか選考されるというシチュエーションが嫌いでしょうがなかった。体が弱く発達も遅れていてあまり優れた子どもでもなかったからコンプレックスがあったし、何より結構繊細だったので他人に駄目だしをされるとすごく傷ついたからだ。

同世代の子どもに対する親戚の優劣批評、スポーツでのレギュラー選考、小論文テスト、大学のゼミ面接、就職面接、これらのイベントが嫌で嫌でしょうがなかった。特に人格に近い部分を見られるようなものがだめだった。

「何で他人にいい悪いを評価されないといけないんだ?評価するあんたはどれほどのもんなの?」

心にそういう気持ちがうずまくが、大概にしてそういう立ち場の人間は優位のある立場に収まっているから反発しても
「ああそうですか。残念でした。はい、落選。」
で終わり。こっちも弱者慣れしちゃって、愛想笑いしちゃったりして後で猛烈に自己嫌悪になったりする(実はそういう時ほどマイナス評価が多い)

でも、最近、そういう他人に試されるというシチュエーションに慣れてきた。
フリーで肩書きの無い人間を採用するわけだからそれに足る人物かどうか知りたいのは当たり前の話だ。仕事の選考は自分個人の人格とは全く別の話だ(選考する側は案外人格にフォーカスしているケースがあるけど)

まぁこういう機会でいちいち物怖じしていたら仕事なんかできないしねぇ。そもそも、それだけの仕事ができる自信があるからフリーになったはずでもあるわけだし(本当か?(笑))

元々、人前では緊張しない性質だし、NLP等を修得してからパフォーマンスも落ちなくなった(普段よりよい時もあるくらい)。

後はこちらの気持ちの問題だっただけなのかもしれない(幼少時のトラウマ克服ということか。。)。

会社員時代の晩年は、評価する立場にも回ったからよくわかるが、案外選ぶ側はノーアイデアの時も多いから心配するだけ無駄ともいえる。

目利き力のある人であれば、相手の実力が明確に引き出せる様なセンスの良い質問をしてくるから、楽しくその挑戦に応じれば良いし(だめならだめで理由は明確)、

「自分たちが実現したいことを助けてくれる人はどうやったら探し出せるか」苦労している人は不安な気持ちを持っていることが多いからその不安を受け止めて課題をクリアする方法を一緒に考えていく様に時間をすごせばいいし(自分がお眼鏡に適わなくても、いいヒントが出れば職業的な満足感は得られるから結構事後は気持ちがいい)、

何が知りたいのか分からない、質問も曖昧、この分野での知見度も不明、人を遇する際の最低限のマナーも無く尊大な人だったら、どうせ無理に取っても絶対仕事はうまくいかない(卑屈に仕事をとって、はまるとストレスも倍増する)。

よく考えればそういうことなんだよなぁ。そうだよ。これからは

「お客様、遠慮せずお手にとってよーくご覧ください。(ヒゲ生えてるんで)手触りは悪いかもしれませんがお品はそんなに悪くありませんよ。なんならお試しもできますよ。」

ってことでいきますかね。

2008年4月20日日曜日

仕事でこだわる

テレビで最近有名になった焼酎の生み手が紹介される番組をやっていた。
「富乃宝山(芋)」「兼八(麦)」「萬緑(米)」かなり有名となっている焼酎だ。(ちなみに兼八は自分の大く好物)

生み手の年齢は35歳から40歳くらいで良い仕事をする人が持つ雰囲気を醸し出していた。(もしかしたら成功体験がそういった風格を醸成したのかもしれない)

良い仕事をする人といっても、カリスマ風でもやり手なビジネス狩人といった雰囲気ではない。信じることに誠実で、こだわりの強そうな折れにくい心を持っていそうな感じといえば良いだろうか。彼らが作った酒が認められるには相当な苦労があったようだが、(成功の保証はないなか)こだわりに徹して壁を突破していたそうだ。

まさに職人魂といったところだが、彼らは蔵主の息子という立場で、職人というよりボンボンor経営者といった位置づけの人間たちだ。以前のイメージで言えば弱弱しく蔵をだめにしそうな感じだ。
ただ、彼らの共通点が面白い。蔵主の子といってもいつ倒れてもおかしくない蔵で、その親も「無理に次ぐ事は無い。好きな道を歩みなさい」的な育てられ方をしていたようだ。そんな中彼らはある期間フラフラした結果、焼酎つくりを自身のコアにすべく、強いられてではなく自らコミットして蔵に戻っていったようだ。自分で選んだ道だから、他責になんてできっこない。とことん仕事にこだわったようだ。

やっぱり良いものには作り手のこだわりがこめられている。
支払える金があるからといって、仕事の愚痴や責任逃れの自己弁護をしながらこの酒は飲みたくはないもんです。
いい仕事して、内側からじわじわ出る満足感とともに友と楽しく味わいたい、そんな気になった。

しかし、最近、35から45位のやつらやその仕事がスポットライト当たるようになってきた感じがする。決してフリーに限らない、組織に所属する人でも結構注目が集まっている。以前なら所属する会社のカーテンに隠れて個人に注目が当たることは少なかったはずだがだいぶ様が変わってきている。もちろん仕事は個人だけではできるもんじゃないが、それでも以前より個人の持っているもの(決してスキルだけの話ではないだろう。想いの強さや信念をも)が問われる時代に確実になってきている。
面白い時代だ。

2008年4月13日日曜日

outputの重要性

「(知識や情報の)inputも大事だけどoutputも同じ位大事だからね」
研修等で結構良く自分がいう言葉だ。

その際に説明として自分がつけるのは、
「知識や情報は生ものだから放置すると腐って使いものにならなくなるけど、自分以外に発信することにより(他者から更新や追加が行われて)常にその情報の鮮度が保たれる。だから知ることで満足して偉くなった気でいたらだめだよ。今は知ってることが偉い時代じゃないからね」
だったのだが、
脳の仕組みからoutputの重要性を提起しているニュースを見つけました。

日経NBonline(閲覧には登録が必要)で脳学者の池谷裕二さんが米国学者の研究を紹介してくれてます。
「脳は「入力」より「出力」で覚える」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/nba/20080402/152046/?P=1

その中で池谷さんが書いている文章を紹介すると、

「つまり、私たちの脳は、情報を何度も入れ込む(学習する)よりも、その情報を何度も使ってみる(想起する)ことで、長期間安定して情報を保存することができるのだ。」

彼は脳にある海馬という部分の研究で特に有名なのだが、海馬は短期記憶を長期記憶として格納するかをマネージするところだ。

つまり「inputばっかりがんばっても記憶で残すには効果的とは言えない」ってことになる。
さらにいっちゃうと「得たネタは使ってなんぼ」ってことになる。

さらに注目したのが上記の文章で「・・・使ってみる(想起する)ことで・・・」という部分。使わなくても想起するだけでも効果が期待できるってこと。
そこでお願いしたいのは、研修やセミナーに行ったらただ聞いているだけでなくて「どう使えるか?」「こう使ってはどうだろ?」と得た知識を利用しているイメージを湧かせながら聞いて欲しいってことです。

人によっては当たり前だろ?と思う方はいるかもしれないが、自分が観察している範囲ではできてない人はすごく多いです。

コーチングや研修やっていて伸びているクライアントは、よく聞いている人ではなくて、そこで得たネタを使っている人です。まちがいない。

ちなみに、このネタ、これからまめに使いますよー!わたくし(笑)

2008年4月10日木曜日

新人の目

ちょっと間が空いてしまいました。

どうも計画的にコツコツ日々思うことを書くというのは性格ではなく、「書きたい!」という衝動が盛り上がってきたときにガンガン書くというのが自分スタイルのようです。
これはブログとして閲覧されにくいパターンなんでしょうね。また、作家になったら最悪で編集者から逃げ回り挙句の果て缶詰されてしまうタイプかもしれません。

さて、世間は新入社員(正確には新卒)の季節ですね。
色々な記事で入社時の訓示が披露されています。その中で比較的よく話されているものが
「新入社員の新鮮なものの見方で新しい風を会社に吹き込んでもらいたい」
ですが正直これには違和感を感じます。

これって、既に組織に入り込んでいる人間の視点だからです。「何が既存なのか」を理解していないから新鮮なのは当たり前だと思います。最初のゼロベースは新入社員自身が(意図的に)出している価値とは言えないでしょう。メッセージの出し先が間違っていると思います。

このセリフは既に会社で働いている人間に語るのが真っ当だと思いませんか?
「新入社員はゼロベースの視点で入ってくる。(我々はそれを良いトリガーとして)彼らの率直な感想を聞いて今一度自分たちを見直してみよう!」
これが正しいメッセージだと思います。

新入社員(新卒)に出すメッセージとしては、
まず「まず(もがきながら)何が既存かなぜそうなっているのかをきちんと理解しよう」、
「そしてある時間が経過した後に、積み上げてきた自分の型を壊して改めてゼロベースで再考してください」が良いと思います。

これは楽なことではないでしょう。
作り上げた自分の(思考・行動の)型は従っていればスムーズだし快適だから人間の本能からすると手放したくない。でもこれはある意味思考停止状態であって、環境の変化に適応できなかったり・競争力を失うことにつながる。だからこそ、人間は快適な状態を自ら手放し常にゼロベースに立ち返り考え行動する必要があるのだと思います。

そういう勇気を持って欲しいとメッセージするのが先達のなすべきことだと思います。
自分が受けている感想(新鮮さ)を意識していない出し手に強化してください(より新鮮になってください)というメッセージをしてもゆがむだけです。

以前、入社数ヶ月の社員と研修後の飲み会で語り合ってた時です。彼らは会社・組織・仕事に関する不満を面白おかしく話してくれるのですが、どうも図式が「既存の会社・組織・仕事=旧く、凝り固まっている(間違っている)」「自分たち=新しい視点、これからあるべき姿(もろ手をあげて受け入れるべき)」となっているのです。
まぁこの手の話は珍しくないし自分も新人の頃はたらふく吹いてましたので彼らを否定する気はさらさらなかったのですが、あまりに意気揚々と語るもんですから「その自信の根拠は何?」と意地悪心で突っ込んだら、
「研修の時に経営陣がそういったから」
ということだけが根拠の様でした。しょうがないので「おいおい、そういう思考自体がゼロベースじゃないぜ」と説明する羽目になりました。

「経営陣の方はもう少しメッセージングのあり方を意識してもらいたいなぁ」と感じてしまいました。
本当にゼロベースの新入社員を出だしから変な色に染められるても。。。

2008年4月2日水曜日

被コーチングモード

先日、プロでコーチングをしている人をコーチングする機会が複数回あった。

こういう時、非常に面白く感じるのだが、
コーチングに慣れている人は必ず「コーチングされモード」に変身する。(こちら側もある程度コーチングをしているとこのモードに入る切り替えタイミングがわかるようになる)

このモードに入ると、クライアントは勝手に自ら気づきマシーンみたいになるので、あまりコーチの技量は問われないといえるかもしれない。こちら側はクライアントの気づきモードを邪魔しないことだけを心がけて、色々な角度で質問を打ち込むだけに集中すればそれでOKといった感じである。
この状態になるとクライアントは勝手に「ん。ああそうか。」とか「なるほどな。。」「ふん、ふん、ふん」とぶつぶつ呟いた挙句「どうもありがとうね。おかげで面白いことに気づきましたよ」と満足げに終了する。お礼を言われたこっちの方が恐縮してしまう。

こういう事象を捉えて、自分は、「クライアントが自ら気づくために壁打ち用の壁を探している」と表現している。あるベテランコーチに聞いたら「かえって、あまり小賢しくなっていない半素人の方がどんな角度から質問が来るかわからないので想定外の気づきが得られて面白い」という言い方もしていた。

以上のことをふと思い出しながら閃いたのだが、
「被コーチングモードに入るためのトレーニング」を作ったら面白いのではないかと思った。
(研修になるか継続的な取り組みになるかは未定だが)
最近は企業のリーダー向けのコーチング研修が盛んだ。ただ、数回の研修で、会社の上司が、部下に対して、ラポールを形成して、部下を気づきが誘発されやすいモードにするなんて芸当を、会社から期待されるなんてちょっとかわいそうだ。

上司は最低限のコーチング的質問スキルだけは習得しておいて、部下がそれを利用する(要するに部下の方から取りに行く)形式に変えてしまうのだ。当然、上司は最低限の質問技術がなければ「あの人はいまいち」と言われるが、部下のほうもあまりに気づけないと「学習センスないんじゃないの?」と軽くプレッシャーをかけられる感じな方が本質的ではないか?

ひいてはその方が部下のためにもなる様な気がする。「成長できないのは上司のせい」なんて理屈が通るのは甘っちょろい会社だけだもの。

2008年4月1日火曜日

「プロ論(才能開花編)」から抜粋

おがじゅんさんのリクエストにより、本中で自分が気に入った著名人の言葉を。
(コメントが殆ど無いのでコメントリクエストに弱い(笑))

人の価値観や置かれている環境は様々なので、全てが読んだ人の気に入るかは分かりません。
色々な人が色々な角度で語っているので、実際に読んだ方がいいかもしれませんね。
読んだ人は読んだ人なりの感じ方をすると思います。

「天職のようなものを見つけたいと考えている人も多いと聞きます。自分にぴったり合い、心地よく働ける仕事がるんじゃないかと。でも天職かどうかなんて、実は永遠に分からないと思います。(中略)結局そんな単純なものではないと思うんです」
(立川志の輔)

「何をすれば分からない人も多いと思う。でも若いうちはそれが普通なんです。若いのに自分の天職が分かっていたら、逆に気持ち悪いですよ」
(夢枕獏)

「今での日本は製造業ベースの社会でした。何事も起こさず、無事にすべてを終らせるのが社会全体の価値だった。でも知的創造社会では違います」
「知的創造社会は、ビジネスと趣味の境界をすごく曖昧にします」
(森永卓郎)

「得意とか苦手とか実は関係ないんですよ。むしろ苦手なものの方が味が出るし、必死で努力するからいい結果が出たりする。本当は、最初からその人に向いている仕事なんて無いんです。これしかないと思った瞬間に、その仕事は天職になるんです。悩んで悟ったのはそういうことでした。でも、悩んで悩み抜いたから出せた結論だったんです」
(丸山和也)

「才能を信じなければ努力はできない。でも、才能を過信してしまったら努力はできない。才能はみんな持っているけれど、汗をかかせてこその才能。それを忘れないで欲しいと思う」
(浅田次郎)

「自分の弱さや不完全さを後ろ向きにとらえないことです。誰かの心を強烈にひきつける魅力は、実は多くの場合、弱さや不完全さの中に潜んでいるんです。」
(石田衣良-作家)

「考え方ってどんどん変わっていっていいと私は思うのね。絶対的な信念に凝り固まって、そこから動けない人って成長力が無い人だもん。そして成長できないとどうなるかというと、年を取るのが悲劇になる。だって、人間、中身が同じなら入れ物は若い方がいいに決まっているんだから。内的に成長していないと魅力の無い人になってしまうということです。」
(倉田真由美)

「悩んだりめげたりしているときは、自分が何と対峙しているのか、しっかり整理できていないことが多いんです。だから漠然とした大きな何かを恐れ、これは無理だと弱気になってしまう。まずはその大きな何かを分析してみてください。その中の何と対峙しているのか正面から向かい合ってみてください。そうすると壁はずいぶん違って見えると思います」
(古賀稔彦-柔道家)

「人は表現する動物なんだと思っています。その表現方法のひとつとして仕事がある。だから僕が何より大事だと思うのは、「その仕事を通じて何をしたいのか」ということ。自分自身の根っこの部分ですね。そのために仕事をしている。根っこがはっきりし、仕事との関係性がわかっている人は、結果を出せると思います。成果やお金は後からついてくるものです。逆に根っこがなく、例えばお金のためだけに仕事をすればどうなるか。お金が満たされれば、それ以上の仕事はしないでしょう。つまり、仕事人としての成長は、そこで止まってしまうということです。」
(coba)

面白いなと思ったのは、著名や頭よさそうであればあるほど良い言葉をしゃべるわけではないってことでした。